Archive for December 2004
12 December
第49話「愛しき友よ」
最終回。近藤はじめ多くの人々の”生きざま”が織りなされた、素晴らしい終末でした。もう少し夢のような世界に浸っていたい気持ちですが、私も前に進まなければならないので(笑)気持ちを切り替えるために最後の感想を書かせて戴きたいと思います。
三谷幸喜さんの描かれる大河「新選組!」を観て、今まで自分の中で不透明だった近藤勇像が確固たるものになりました。
あの土方が生涯を尽くし支えたほどの男・近藤…大河で一番注目していたのは、そんな近藤が如何にして自分の最期を選択するかということでした。
土方との別れも、加納や有馬に対する行動も、思えば「新選組!」の近藤だからこそ貫くことのできた選択だったのかもしれません。ドラマが始まった当初、あまりに純粋すぎる近藤像に対して賛否両論ありましたが、そんな近藤に相応しい最期だったのではないでしょうか。
信念を貫き、信頼の上に立ち、どこまでも純粋な近藤を観ながら、いつしか自分もそうありたいと、まるで届くことのない大空を仰ぐかのように近藤を追っていました。
そして”きらきら光る青春群像劇”を、懐かしく目を凝らしながら観ていたように思います。
最期の言葉「とし…」。
この言葉を聞いて私は、本当に本当に本っ当〜に心臓が止まるかと思いました(汗)。…というか全く予想もしていなかった名前に心臓バクバク…(笑)。「いいのですか?”とし”で本当にいいのですか?」と、なんだか聞いてはいけない人様の告白を聞いたかのようにテレビの前でオロオロしてしまいました。実は今でもその時の近藤の心情を冷静に分析することができないでいます。
こんなことを書くと、お前は「新選組!」の一体何を観てきたのだ、近藤と土方の信頼関係は不滅と言ったのは嘘だったのかと言われそうですが、これはきっと苦楽を共にした「愛しき友」にしか分からないんじゃないかと思っています。もう「信頼」という言葉すら霞んでしまうというか…彼らは私たちの想像もつかない遙か遠くの世界で繋がっていて、私たちはそんな彼らを眩しそうに見送っているだけのような感覚…とでも言いましょうか。私たちが入り込めないような境地があったのではないかなと思っています。
あの刑場の柵を境に、私たちはふでさんやつねさん達の側でもって近藤と新選組にエールを送り、キラキラとこの世の終わりを告げる人間=近藤を見送っていたように思います。
あの最期の場面はまさに、私たち視聴者(観客)をも巻き込んだ舞台そのものだったのではないでしょうか。
画面上の近藤は、まさしく舞台に立ち「新選組!」を演じきった香取さん。そして、私たちは多摩の人々と同化し「よくぞここまで頑張って下さいました。」と近藤を胸を張って見送ることができたのです。
名残惜しみながらも、達観したような、なんとも不思議な感覚に襲われました。
歴史は、多くの名もなき人間の人生によって紡がれたものだと思っています。
教科書や参考書にはない、私たちの想像もできない生きざまが、きっとあるのでしょう。
今回の大河ドラマ「新選組!」は、そんな、儚いけれども無限に拡がり受け継がれていくであろう”生きざま”を、私たちに届けてくれたように思います。
本当に、このドラマに出逢えてよかったと思います。
これから皆さんそれぞれの道を歩むことと思いますが、名もなき私たちが、2004年という一つの時代を大河「新選組!」を通して共有できたことを誇りに思いたいです。
また、いつかどこかでお逢いしましょう!
ありがとうございました!
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05 December
第48話「流山」
今回はなんといっても、香取さん演じる近藤の表情が印象的でした。一年以上もの間「新選組!」を模索してきた三谷さんと香取さんだからこそ表現できた、最高の場面だったと思います。
賛美歌のような曲「やすらぎ」も後光が射した近藤と相まって、観ていて心が洗われるようでした。
これが近藤勇本来の姿だったのかもしれませんね。
加納でなくても平伏してしまいそうになりました。
流山での一連の行動は、土方との意見の食い違いがあったとか、戦意喪失したからだとか、上手く切り抜けられると見誤ったとか、いろいろな解釈がされてきました。
特に土方ファンにとっては、かけがえのない友(近藤)を救えなかったという事実に縛られ「流山」と聞くだけで悶々とした気分になったものです。
今回の「流山」は大河「新選組!」に生きてきた近藤ならではの展開で、目からウロコが落ちる思いでした。
窮地に追い込まれても、決して自分からは「生きる」ことを諦めない近藤と土方の行動は、観る側にとっても救いでした。
新選組ファン以上の愛情を注いで近藤勇を描ききって下さったことに感謝しています。
三谷さんが幕末研究に携わってこのような解釈をされて下さっていたら、私も流山に対して悶々としたイメージを持たなくてもよかっただろうに…と(個人的なことではありますが)ちょっと思ってしまいました(汗)。
また、今回強烈な印象を与えて下さったのが、有馬藤太を演じる古田新太さんでした。やや時代遅れにも見える彼の朴訥さ、剣に掛ける想いは、「武士よりも武士らしく」生きようとした近藤と重なって見えました。
特に、背中合わせに語る場面は圧巻でした。互いの立場を弁えた上で、それぞれの生き方に敬意を表している…というのが美しかったです。
当時、薩長や会津など各藩ごとの関係は緊迫していましたが、藩を超えた個人の関係は尊重されていたように思います。
関係は敵味方でも、同じ人間として「膝を交えて」語れば、身近に、そして愛しく感じることもあったのではなでしょうか。
(話はずれますが)よく、「話せば分かる」という言葉を聞きますが、これは”銃”ではなく”剣”の世界だからこそできるものだと考えています。
(基本的に戦う行為はいけないことですが)銃のように遠くから相手を撃つ行為は、相手の声も痛みも感じない行為だと思います。
剣はその点相手と一対一で勝負できると同時に、場合によっては自らの命をも危険に晒しかねません。いつのときも命がけで相手と向き合わなければならないわけです。
時代劇が斬る行為以上に人道的なイメージを与えるのは、こういったことなのかな、と近藤と有馬のやり取りを観て思ってしまいました。
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